会社の歩み

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第一話 「第一歩」

image2.jpg私の幼年時代の我が家の家業は農業でした。
私の記憶では、祖父は家族と父母と共に、毎日毎日、朝は朝星、夜は夜星が見える時間まで、黙々と田んぼで働いていたように思います。

その当時の百姓仕事に欠かせないのが農耕用の牛であり、私は父に牛車に乗せられて、家族が野良仕事をしている間、小川で遊んでいたことを思い出します。

少年時代には、学校から帰ると庭のタタキに消し炭で「どこどこの田んぼにいる」ということが書いてあり、農作業の手伝いをよくさせられました。この時ほ ど、町の子をうらやましく思ったことはありませんでした。「どうして町の子に生まれなかったのだろう?」と幾度となく思ったものです。

戦後、父は農業の傍ら、農閑期には市内の建設会社に日雇いとして働きに出ておりました。そんな時、農耕用の牛を農閑期にも自分と同じように働かせることは 出来ないかと考え、荷物運搬用の車を作り、建設資材の運搬を担当させて頂いたのが、物を運んでお金を頂いた仕事の最初だと記憶しております。

この時が当社の歴史の第一歩でございます。

話が少し横道にそれますが、私の記憶では、祖父母は先代より受け継いだ一握りの土地での農作と、小作農(大地主より農地を借りて年貢を納める)として生計を立てていたようです。
祖父母の一番の願いは、少しでも広く、少しでも多く、自分の農地を持つことだったと聞いております。年中、米・麦・野菜等を作り、朝早くからリヤカーに積 んで町に売りに歩き、少ないながら現金収入を得て、爪に灯をともすような生活をしつつ自分の農地を増やしていったと聞いております。

この時の農地が、旧本社と現在の本社と車庫等の敷地として使われているのですが、そういう経過を考えると、一坪でも無駄に使えないと思います。

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第二話 「父の選挙」

old_photo.gif飼っていた牛も農耕用が主でしたので、黒色の牛でしたが、運搬が主体になってきますと、体が大きく力の強い牛が必要となり、いつからか赤色(だいだい色)の牛に変わっていきました。

戦後の復興とともに、日本板硝子様、日本通運様から仕事を頂くようになり、当時の花形でありました“馬車による運搬”を手掛けるようになりました。故 平井専務が戦時中の軍隊での経験を生かして、父と一緒に仕事を始めた時期であったと記憶しております。

その後、名称も池畑組と名乗り、農閑期だけの仕事から脱皮し、運搬を専門に行うようになりました。仕事着も印半纏(はんてん)に池畑組という名前入りのものが出来、馬子の人たちもなかなかりりしい姿をしておりました。

農業と運送業に従事した父は町内の方々からの声を受けて、弱冠42歳で四日市市議会議員に立候補致しました。今とは
違い車の無い時代の選挙でございました ので、選挙運動といえば、毎朝学校に行く前に、父を先頭に母、兄、私の4人がメガホンとのぼりを持ち、町内をはじめ、近くの町を、「池畑佐太郎に清き一票 をお願いします」と連呼して歩くというものでした。当然、学校に行きますと同級生にひやかされたり、からかわれたりしたことを思い出します。第一回目の選 挙では、上位で当選させて頂き、父の地方政治家としての第一歩が始まりました。
uma.jpg運送業の方も、徐々にではありますが、お客様から信用を得るようになり、仕事も拡大していき、馬数も三頭、四頭と増えていきました。なにぶん、生き物が相 手でありますので、朝夕の餌の用意、牛馬小屋の糞尿の始末等々、家族や馬子の人たちの苦労は大変だったこと
を記憶しております。

 

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第三話 「選択」

bonodori.JPG馬車の数も少しづつ増え、最盛期には十頭の馬車により仕事をするようになりましたが、今と比べるとそれはのんびりした時代でありました。例えば、大協石油(現在のコスモ石油)構内を通行するのに馬の蹄から火花が散ったり、夜になるとちょうちんを灯して運行したりとか・・・。

時々、長距離輸送(長距離と言っても名古屋迄ではありますが)もありました。私の記憶では、アイスキャンディーを作る機械を名古屋の大官町迄運んだことが ありました。夜の十時に出発して、翌朝荷卸を行い、帰って来るのが夕方だったと思います。

今考えると馬車による輸送は大変で、馬が道路脇の店に突っ込んだり、橋のらんかんを壊したり、突然暴走しだしたという事故もあったようです。また、生き物 ですので、病気になったり、怪我をしたりした時の世話も、なかなか大変だったようです。後年、車の時代となり、父はよく「馬は何年か使役して、買い替える 時には、買値よりも売値の方が高かったが、車は古くなると鉄くず同然だ」とこぼしていました。
一度、私どもの馬が、多度大社の大祭の時に神官がのる馬として要請されたことがあり、故 平井専務が乗馬して多度まで往復したことがありましたが、大変な評判だったと聞いております。

昭和三十年頃になりますと、復興の勢いはめざましいものでありました。電器屋さんの店頭にもぽつぽつとテレビが置かれるようになりました。町内でも二軒ほ どテレビを持っているお宅があり、夕方になると近所の人々がそのお宅へ出向いて、それはもう映画館さながらの光景でありました。
また、この頃電話が普及し始めましたが、私の家に電話が取り付けられた時のことを今でもよく覚えております。電話のベルが鳴り、受話器をとっても、受話器に向かって話すことが恥ずかしくて、ろくに話も出来ませんでした。

運送業も徐々にではありますが、馬車から自動車による運送に変わり始め、日本通運様から「自動車に切り替えて欲しい」と要請されて、父は大変困っていまし た。何故かと
uma_hirai.JPG言いますと、自動車運送事業は免許事業であり、免許の取得が非常に難しかったことと、その当時、父も馬子さんも誰一人として運転免許を持って いなかったからです。当時、運転免許を持っている人はごく少数であり、仕事を廃業するのか、自動車運送に切り替えるのか選択しなければならない時期となり ました。

 故平井専務と馬(多度へ行った馬かどうかは不明)



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第四話 「決断」

ikehatatosihiro.JPG父は、非常に考え悩んだ末、馬車から自動車による運送への切替を決断しました。
当時、馬は10頭になっており、切替えたときの馬の処分や自動車の購入、貨物輸送の免許、運転免許等々、どれをとっても頭の痛い問題ばかり山積しておりました。

先ず手がけたことは、自動車貨物輸送免許の申請で、すでに開業された方々に指導を受けて、専門家の力を借りて準備を進めました。
また、馬子の人達は自分たちの1日の仕事を終えてから、自動三輪免許取得の為、近所の修理工場から借りてきたボロボロのダイハツにまたがって農道を使い、走る練習を開始しました。
その頃には、私も高校2年生になっており、免許を取る資格がありましたので、練習の中に入れてもらい、日々練習を行いました。
その当時の車は、足できつくペダルを踏んでエンジンを始動させるのですが、車が古いのと単発のエンジンのために、なかなか始動しなかったことを記憶しております。

いよいよ運転試験の試験日が近づいてきました。
その当時の試験会場は、津の御殿場にあり、近鉄で四日市から江戸橋まで行き、そこから乗換えをして試験場へ行くわけです。駅で降りる人の大半は試験を受け る人たちであり、電車を降りると、他人よりも早く受験番号をもらうために、一斉に走り出し、会場までの競争が始まりました。
受験番号をもらうと、緊張が高まり、ドキドキしながら順番を待つわけです。

当時の試験内容は、先ず学科試験を受けて、実技試験になるのですが、実技の方は1次、2次と2回の試験がありました。
実技の1次試験で、短いコースを1分30秒以内で脱輪させることなく回って合格すると、2次試験では長いコースに挑戦するわけです。このコースの周りに は、順番を待つ受験者の人垣が出来て、皆が注目しておりますので、緊張感が高まり、運転席に座りますと手足がガタガタと震えました。umakotachi.JPG
このような緊張感を無くすために、近くの食堂に走り、ひや酒を飲んで、試験に臨む人も少なくなかったようです。
全く今の時代では考えられないようなことであります。

 

 

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第五話 「営業開始」

autosanrin2.JPG苦労を重ねた結果、運転免許も無事に全員が取得することが出来、昭和32年3月25日付で運送免許を取得致しました。免許の種類は限定免許で、輸送品は空ド ラム缶に限り、四日市市内より出荷される商品と四日市市内に納品される商品のみ輸送出来るという非常に制限を受けたものでありましたが、池畑運送合資会社 と言う法人組織の登録を済ませ、マツダのオート三輪の中古車を4台購入して、いよいよ営業を開始することとなりました。

業務内容と致しましては、それまで馬車で行っていた仕事(ドラム洗浄工場から、大協石油の製油所や油槽所への空ドラム缶の輸送)を引続き行いました。当時 は、石油製品の輸送はドラム缶を利用する方法が主力であり、現在私どもが行っているようなタンクローリーによる輸送はほとんど行われておりませんでした し、また、タンクローリーを保有する会社も四日市市内にはほとんどありませんでした。
なにぶん、今まで馬車で行っていた仕事をスピードの出る車で行うわけですから、10頭近くの馬車の仕事もオート三輪4台に変わると、丸1日分の仕事がなく、午後になると空車で待機しなければならない日が続きました。

石井産業(ドラム洗浄工場)から大協石油(現 コスモ石油)までは、2.5km~3kmの距離であり、オート三輪に50本前後の空ドラムを積み終わり、運転席にまたがると、ホッとする間もなく商品の納 品を行わなければなりません。この作業が1日に十数回続くわけですので、乗務員というより作業員と言ったほうが合っていたかもしれません。
先ほども触れたように、今までの仕事を継続していただけでしたので、、午後から仕事の無い日が続きました。そこで、故 平井専務が乗務するかたわら、日本通運や大協石油の方々に仕事を頂けるよう、お願いをしてまわりました。
結果、大協石油様よりガソリンを精製する時に使用する白土の廃棄という仕事を少しずつ頂くようになりました。

白土の廃棄という仕事は大変な仕事でありました。autosanrin1.JPG
13尺(4m弱)もある長ロングボディ(当時)にスコップ1丁で白土を満載するわけですが、黙々と一人で積む作業は空ドラムを積む作業の比ではありません。
顔、手、足は言うに及ばず、体全体を白い粉でも塗ったような姿になったものでした。
今考えるとゾッとしますが、当時は、私どもの出来る仕事はこれしかないんだと思いながら、社員全員頑張って仕事を行いました。

 

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第六話 「出逢い」

R1.JPG石井産業様から大協石油様への空ドラム輸送の日々が続き、その仕事が早く終わった時には白土の処理を行いながら、二年の年月が過ぎた頃、石井産業様が出光興産様の油槽所のドラムを洗浄することが決定し、お陰様で、油槽所へのドラム輸送を依託されることとなりました。

当初は、50~100本程度の本数でしたので、日に1~2回の運送という微々たる仕事量ではございましたが、今から考えますと、この小さな取り引きがあっ たからこそ、今の池畑運送があるといっても過言ではありません。出光様との出逢いは偶然性を多分に含んだものでありました。当たり前のことですが、私ども は仕事量の大小によって区別することなく、頂いた仕事については一生懸命やって参りました。その甲斐あって仕事量も徐々に増えていきました。

この頃の出光様の油槽所は、非常に小さな規模で、これといった設備も無く、小型タンカーで荷揚げされた油をドラムに充填して、出荷する施設でありました。 出光様とお取り引きさせて頂いて、非常に驚いたことが二つありました。一つは、油槽所の方々が非常によく働いていたことで、私どもも朝早くから夜遅くまで 人並み以上に働いていたつもりでしたが、その比ではありませんでした。二つ目は、構内が非常に汚かったことで、長靴を履かなければ歩けないくらい、土の中 や上を問わず油がこぼれていたり、漏れていたりしておりました。

当時、ガソリンスタンドや農協関係の方々は、油をドラムで購入されており、出光様は自家用車で実入りドラム(ガソリン、灯油、軽油、重油)の納品を行って おりましたが、ドラムによる出荷も日ごとに増えていき、出荷量の多い日には自家用車だけによる配送が困難になってきていました。そんな時、出光様から忙し い時だけ応援して欲しいとの要請がありました。毎日の仕事ではありませんでしたので、増車することも出来ず、かといってお断りするにはもったいない仕事で ありましたので、苦肉の策ではありましたが、石井産業様の仕事の前に、出光様の仕事をすることが出来ないか相談させて頂きました。検討して頂いた結果、自 社で配送出来ない日は仕方ないだろうということで、実入りドラムの輸送を始めることになりました。autosanrin3.JPG

実入りドラムの配送については、石井産業様の仕事が朝の8時から始まりますので、前日の夕方に積み置きさせて頂き、伊勢や久居方面に配送しました。なにぶ ん、納入先様に到着するのが朝の5時から6時くらいですので、お客様をたたき起こして荷卸をして、飛んで帰って、石井産業様の仕事をするという日々であり ました。

 

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第七話 「丸ハンドル」 


shako.jpg出光様の実入りドラムの配送も徐々にではありますが、増えてまいりました。
前号でもお話したように、出光様の配送は早朝になりますので、最初のうちは我慢して頂いていた販売店の方々からも、日に日に苦情を頂くようになりました。 冬場のまだ夜も明けない、また一番寒い時の配送になりますと、これはもう大変です。

私どもも、出光様もこの問題を解決しなければならなくなり、当社で出光様の専属車両をつくろうということになりましたが、新車の三輪車を購入出来るような 資金もなく、二年ほど経った中古車を購入致しました。この車は当社で初めての丸ハンドルであり、こういうことを考えるとその頃はいかに古い車ばかりであっ たかお察しがつくことでしょう。社員の誰もが、あの丸ハンドルのついた車に、運転席にドアがついた車に乗りたいと思ったことか・・・。

この当時、石油販売は日の出の勢いで伸び続け、スクーターや単車が全盛期で、国民車と言われたトヨタパプリカが、一般の人々でも購入出来るような社会に なってきました。私の夢は、小さくても、中古車でも構わない、自分の車が欲しいということでした。まだ弱冠22歳でありました。

石井産業三様と出光興産四日市油槽所様という2つのお客様を得て順調に仕事を続けさせて頂くこととなりましたが、出光様の方は実入りドラムの出荷が増える にしたがい、3㌧車よりは4~6㌧車と、どんどん増車が進められていきました。前にも触れましたが、資金に限度があり、新車購入というわけにはいきませ ん。ほとんど中古車を購入して対応しました。

ちょうどこのころ、石井産業様の工場敷地内に『池畑運送合資会社』と社名の入った事務所を持つことが出来ました。事務をする場所が五畳程度、休憩室が六畳 程度の掘っ
kazoku.jpg立て小屋ではありましたが、やっと自分達の城が出来たという嬉しさは今でも覚えております。

この年には、皆さんご存知の伊勢湾台風のきた時だったと記憶しております。夜の7~8時に風雨はどんどん激しくなり、みんなが出来るだけ被害をくいとめよ うと頑張りましたが、高潮のため今の1号線より東側は床上浸水の被害を受けました。
台風一過の翌日は好天に恵まれましたが、四日市にも大きな爪痕を残しました。

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第八話 「待望のタンクローリー」 


仕事も徐々にではありますが順調に拡大してまいりました。

出光様も増車が計られ、ついに当社で待望のタンクローリーを購入することとなりました。日産の6トンシャーシに7KLのタンクを積んだボンネット型ロー リーです。しかし、ローリー車に関しては出光様が自家用車で配送されていた時代ですので、なかなか良い仕事は頂けず、配送困難なところを当社が担当すると いう状況でした。

頂いた仕事は、毎日尾鷲市まで軽油を配送する仕事でした。その当時、現在の東邦石油様のところは山であり、平地にする工事が行っておりました。この工事に使用する車両用の軽油を配送させて頂くことになったわけです。

その頃の国道42号線は松阪市以南は砂利道であり、6トンローリーが1台走れるくらいの道幅しかない山道でした。今ですと片道3時間強の道のりですが、その当時は5~6時間を要しました。

配送前日の夕方に積み置きをしまして、夜11時ごろ出発して、尾鷲には翌日の5時くらいに到着して、7時頃から荷卸をして帰るという繰り返しでした。なに ぶん、砂利道ばかり走りますので、2~3回の往復でスプリングが2~3枚折れてしまい、毎度修理をしなければならない状況でした。

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第九話 「結婚」

昭和32年に荷馬車からオート三輪による輸送に変わり、待望のタンクローリーでの輸送も始まり、私が担当をし、毎日尾鷲まで配送をする日々でした。

その頃の池畑運送は合資会社でしたので、代表社員(社長)が無限責任社員という法的な位置付けで、会社が倒産をすれば、最後まで責任を取らなければならないのです。
父親は、三重県県会議員をしておりましたので、ほとんどの業務を私と平井社員(故 平井専務)で行なっておりました。父親は最悪の事態を考え、何の財産もない私を代表社員(無限責任社員)に変更し、私は23歳にして代表社員に就任することになりました。
私は、毎日ローリーに乗務しながら代表社員を務めるという日々でした。

昭和38年に縁がありまして、結婚をすることになりました。
見合い結婚でした。私は見合いの経験が無く、初めての見合いでしたが、妻は初めてではなかったそうです。
新婚旅行は、鹿児島と宮崎に行きました。私も妻も生まれて初めて飛行機に乗りました。
大阪空港発のYS11というプロペラ機でした。

   
   

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第十話 「人手不足」

image7.jpg昭和40年6月に現在社長である長男の弘樹が誕生致しました。
業務の方も順調に拡大して参りました。特に、出光様が販売量をどんどん拡大していって、それに伴いトラック・ローリーを増車させて頂きました。

オート三輪 6t・8tトラック 7KL・8KL積タンクローリーに加えて、小口需要家先に配送する2KL積ミニローリーと初めてボンネットのLPGローリーを保有する事になり、車両も25台位まで増車をすることができました。
車が増えるたびに、一番の悩みの種が人手不足でした。
まだまだ、待遇面や労働環境の整備が出来ていませんでしたので、なかなか入社希望者がいませんでした。
職業安定所の近くまで行き、乗務員に向いていそうな人に直接声を掛けて、勧誘を繰り返していました。
人材の確保は、その時は一番大事なことでしたので、当時自宅の前にあった納屋を改造し、今でいう社宅らしき物を作りました。食・住をまかなって、増員の努力を致しましたが、その後が大変でした。
朝食・昼食の弁当・夕食の用意すべてを、妻が子育てをしながら、やってくれていました。
一人・二人と増員出来ていくことが、楽しみと苦労の両面でした。多い時には6~7人にまでになり、妻にも従業員にも、大いに当社の力となっていただきました。image8.jpg

妻には、集金業務での協力もしてもらいました。
出光様の名古屋支店に手形を頂きに行かなければならないのですが、私も他の社員も集金に行く余裕など無く、妻が弘樹を背負って、名古屋まで電車に乗って集金に行ってくれました。

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第十一話 「松本への出店」

shako.jpg昭和41年には、石井産業さんの敷地内にあった事務所を無くし、新正2丁目に自前の事務所を新設致しました。
わずか35坪ほどの木造2階建ての事務所でしたが、「当社の城が出来た」と全社員で喜び合ったことを記憶しております。
車輌も増車されて行く中で、車庫の確保が必要となって参りましたが、祖父・父が農業をしておりましたのと、その頃市街化が進み、田んぼを埋め立て車庫用地にすることが出来たので、土地を購入しなくても良かったことは、大変恵まれていました。

この頃、出光様の松本支店から「LPGの10t積のキャブオーバー車で配送をしないか?」とのお話を頂きました。
その数年前には、大阪府西宮市内でLPGローリーが横転事故を起こし、積荷が漏れ大火災が発生したために、同業者の中でもLPGローリーは怖いと思われていて、松本の運送業者の方々も松本支店からの要請を断っておりました。
私共と致しましては、業務拡張のチャンスと思い、配送をさせて頂くことに致しました。
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LPGローリーは松本に配置し、積込場所は千葉製油所で、松本~千葉間を二人乗務にて二日間で一運行をするという状況でした。
乗務員の方々は四日市から出向していただき、宿舎は出光様の松本支店の寮をお借りして業務をしておりました。
その後、長野県内でのLPGの増販がされる中、LPGローリーも数年で4台が稼働できるようになり、それに伴い、当社は、松本に営業所を新設することに致しました。

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